自分で言うのもナンなんだけど。
昨日2件、本日朝一から夜遅くまでかけて5件、職場の人の家やお友だちの家々を流れのままにまわされた。
その中でもメインで、約束していたのは病院で掃除をしているアキーニの実家。
実家と言っても、教会が経営している孤児院である。
他の孤児院がどうなのかは分からないけど、そこは、どこからの援助も受けず、近所の人々の協力と、教会の寄付金、自分たちで農牧したものを売って成り立っていて、幼稚園から大学までの子どもたちが住んでいて、おまけに行き場のなくなってしまった障害者も受け入れていた。
そこの責任者いわく「ファンドはいらない。すべて必要なものは、神が与えてくれるから」だそうだ。
一緒に行った、若干激しすぎるくらい慈悲に満ちた小児科の看護師と、陽気でなかなかいいキャラの病院の警備のあんちゃんと、私は、その子どもたちの前で、人生の経験を話してくれと頼まれた。
長々と真剣に話す二人の話と、子どもたちの様子を観察しながら、何を言おうか考えた。
考え、考えたけど。
それぞれの理由で両親をなくし、これから自分たちの力で生きていく彼らに、私がかけられる言葉なんてあるわけもなく。
両親がいなくても、神はいつもあなたと共にいるよなんてきれいごとを言えるわけもなく。
追い詰められた私は、自分でも驚いたけど、満面の笑みと、全開の情熱をこめて、日本語で
『人生は勝負なり!』と口走っていた。
いちよう埋め合わせで、 『この日本語の意味は、人生は勝つか負けるかしかない。私たちがどんな状況にいるにしても、私たちは問題ではなく、答えになれるのです。 負けないでください。あなたのPowerや才能をムダにしないでください。 待っているだけではなく、積極的に夢を持ち、それを実現していってください。』 的なことを英語で説明したつもりだけど、うまく伝わったのか、コレが彼らにとってよい言葉だったのかわ分からない。
でも、今日感じたことは、孤児だからってかわいそうとか、哀れみの態度で接してもしょーがない。
大変な状況にある人に陰気な顔して接したら、本当に不幸見たいな感覚に陥ってしまう。
大変なときこそ、辛い思いをしているからこそ、明るくなれる。素敵な笑顔の人になれる。
『人生は勝負なり』
生きることも、今の活動も、生優しいもんじゃない。前に自分が進もうとすることは、苦しい作業であったりする。
人生も、今の活動も、勝つか負けるかどっちか。やるかやらぬか、続けるかあきらめるか。進むか逃げるか。
何気なく発した言葉だったが、そんな追い詰められた自分の言葉のおかげで、なんだか吹っ切れた私だった。
だけど、あまりの疲労に、明日起きれるかかなり心配である。
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